〇〇くんママって呼ばれるの正しいんだけど、けどさ、なんだかモヤモヤしてしまう。
もちろん息子を中心に考えたときには、関係性がすぐ分かる合理的な呼び方だということは分かっている。
いちいち目くじらを立てることじゃない。
ただどうしても違和感は消えないままだ。
息子が保育園に通うようになってから〇〇くんのお母さんと呼ばれるようになり、なんだかわたしは子どもの付属物になったなーと思った。
なぜ誰かの続柄で呼ばれることに抵抗があるのだろう、と考えてみた。
もくじ
続柄で生きることは誰かに依存することかもしれない
続柄は自分と誰かという関係性のもとに成り立っている。
その誰かがいなければ自分が自分として認識されないも同然だ。
一度は個人として認知されている
よく考えてみれば社会では一度は誰かの続柄ではない"〇〇さん"、つまり枕詞がない個として認められている。
学生も社会人も個人として認識されることが当たり前すぎて気がつかなかった。
個人として認められた経験があると、いざ誰かを介して認知されることになんとも知れないモヤモヤが募るのかもしれない。
子育てにアイデンティティを求めることの弊害
これはまさに実感することだけれど、子どもを産むことは一時的であれ事実上キャリアの断絶・転機となる。
妊娠・出産を機に仕事を辞めたり、復帰しても独身の時のように二つ返事で出張にも行けない。いつのまにか以前は仕事を教えていた部下に今度は指示を仰ぐようになる。
でもそれは仕方ないことだ。社員は替えがきくけど母親は替えがきかないから。
周りにいくしわ寄せを心配しながら、常に100%で思うように仕事ができないもどかしさが付きまとう。
だから仕事以外のことで自分を肯定しないと辛くなる瞬間がある。
そうすると子どもを立派に育てることが自分の使命だと強く考える人も出てくるだろう。
その考えが行きすぎたときに、子どもへの意識よりも"子を懸命に育てている自分"がアイデンティティになってしまう。
話によれば、夫婦の会話といえば子どもの連絡事項のみ、というのも専業主婦の割合が多い世代にはけっこうあるらしい。
ずっと子どもとだけ接していたらそうなるのもわかる、と経験上思う。
しかしチャンネルが一つしかないことはリスクだ。子どもの話しかできないという事態が怖い。
特に独身の人との共通の話題は減り、年々深い溝になっていく。全く違う世界を生きているように感じることもある。
だから放っておくと自分が子に依存する裏返しで、子どもがいない人に対してマウントをとる事態に陥りかねない。
「あの人結婚してないから」「子どもがいないから」という呪いの言葉を吐き出し始めたらもうおしまいだ。
子どもと親がセットで認識されていることに依存してしまうと、おそらく子どもが大きくなっても自立を妨げてしまう。
専業主婦が悪いということではなくて、そういうことも起こり得るということだ。
いつのまにか自分を肯定するために他者を攻撃する人にならないためには、一体どうしたらいいだろう。
いくつかのクラスター(集合体、群れ)を持とう
クラスタ (cluster) は、英語で「房」「集団」「群れ」のこと。
出典:Wikipedia
家族、同級生、仕事仲間、趣味の仲間などのクラスターをいくつか持つこと。
続柄から解放されてただの自分に戻れる場所があれば、きっと楽になれる。
好きなことをもう一度思い出してみよう
子育てというクラスターがあるなら、違うクラスターも作ればいい。
無我夢中の子育てで忘れていた趣味を大切にしよう。
育児してると個性が死にがち(オチなし心境メモ) pic.twitter.com/fE1Z3wSYVu
— とり (@torikaworks) 2018年11月23日
これ死ぬほど共感したツイート。
追記。自分の好きなことを少しでもしてみる、という簡単なことがとても難しいのだけどもね…。 pic.twitter.com/4Lzd0aSnyk
— とり (@torikaworks) 2018年11月24日
そして子育てに向かう姿勢としてこうでありたいと思う姿。
さくらももこのこういう感覚が好き pic.twitter.com/vDZjOjh1wJ
— ゆり@2人目育休中 (@lily0210) 2018年8月4日
まぎれもなく自分の子だけど、その前にいつかは社会に出るひとりの人間なんだよな・・・
と100万回うなづいてしまった。
ちなみにわたしは子どもに依存するタイプではないと思う。
子どもをベタベタに溺愛できないと親失格みたいに思えたこともあったけれど、さくらももこさんの出産エッセイにはすごく救われた。
〇〇くんママと呼ばれることにモヤモヤするのは、誰かを介した自分ではなく個の人間として見られたい気持ちの表れだ。親である前にひとりの人間として楽しみたい。
また趣味を楽しむ親の姿を見て育つ子どもは、自然と自分の好きなことを見つけられたり大切にできるのではなかろうか。
こうして文章をつづることも一つの楽しみになっているので、細く長く続けていきたい。
現場からは以上です。